No.3)燕市 金属加工の歴史

次は燕市の代名詞ともいえる金属加工についてです。

世界に誇る金属加工の街はどのように誕生したのでしょうか?
それには様々な歴史の積み重ねがあります。

提供:燕物産株式会社

金属加工とは?

金属加工とは、その名の通り金属材料にほどこす加工のことを指します。
英語だと”metalworking” と表記されます。
金属加工は木工(木材加工)や石工(石材加工)などと対比されることが多いです。

ひとくちに金属加工と言ってもそのスケールは様々であり、大きなものではたとえば船や橋の製造・加工といったようなものから、中程度ではたとえばブロンズ像(銅像)の制作、自動車のシャーシやボディの製造、精巧なエンジン部品の加工・製作、アルミサッシの製造、金属製鍋の製造、小さなものでは指輪・ペンダント等々の装身具の制作やリフォーム、マイクロネジの製造、などといったものもあります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「金属加工

現代の燕市の金属製品製造業は、金属洋食器(ナイフ/フォーク等)、金属ハウスウェア(卓上用・厨房用器物等)の製造が中心となっています。他にもプレス/切削/金型/精密板金/接合/スピニング加工/パイプ・線材加工/鍛造/鋳造/研磨/表面処理/熱処理/樹脂成型を得意技術とする企業が存在します。

また燕市の従業員の約3割が金属製品製造業というデータ(燕市ホームページ 2020年工業統計調査より引用)があり、まさに金属加工の街の名にふさわしい環境になっています。

金属材料を加工して部品や製品を作り出すことが金属加工なんだ。分野もとても幅広いし、現代社会になくてはならない業種だね。

原点は和釘づくり

燕市と金属加工の歴史は和釘づくりから始まったと言われています。

前回の河川の歴史でも記載した通り、住民は長い間、信濃川の氾濫と戦いながら農業に従事してきました。しかし農業だけでは生活が厳しい現実もありました。
そこで江戸初期頃、これまで農業が中心だった付近の住民が副業として始めたのが和釘(わくぎ)づくりです。

和釘(わくぎ)は、もともと神社仏閣・城郭などの古建築物を中心に、飛鳥時代から日本の建築に欠かせない釘として使われてきました。
釘の頭部分が太く角張った軸で表面積が大きいことが最大の特徴です。

和釘は金鎚(かなづち)で一本一本叩いて作ることで、微妙な太さの違いを表すことができます。
例えば、茶室の床柱の太さや空間にあわせ、釘のラインも同じ調子でこしらえるなど、日本建築の空間へのこだわりは、釘ひとつに対しても、職人の微妙な感覚とやり取りで表現されています。

江戸時代は、江戸の町が度重なる地震や火災に悩まされており、特に和釘の需要が高まっていました

そういった背景もあり、江戸末期〜明治初期まで燕産業の80%は和釘の生産で占められていました。

和釘は1本1本金属を叩いて作っていたのね。これが金属加工の街の原点だったんだ。

鎚起銅器との出会い

鎚起銅器(ついきどうき)って聞き慣れない言葉の人も多いと思います。
どういう意味なんでしょうか?

鎚起銅器とは、1枚の銅板を鎚 (つち) で打ち延ばしたり絞ったりして形を作る銅器のことです。

皆さんも小洒落た飲食店でハイボールを頼んだ時などに、銅製のちょっとボコボコしたグラスを見たことありませんか?物にもよりますが、あれって一枚の銅板を叩いて形を作っていたんですね。
鎚起銅器はやかんや急須などだけでなく、鍋やフライパン、ぐい呑やビールカップ、コーヒーのドリッパーなど様々な日用品が製作されています。

話を戻すと、江戸中期の1701(元禄14)年、燕の西側にある弥彦山で銅山が見つかり銅の採掘が始まりました。間瀬銅山(まぜどうざん)と言います。
ちょうどその頃、仙台から渡ってきた職人が鎚起銅器の製造技術を燕にもたらしました。間瀬銅山は1920(大正9)年に閉山されたので現在は立ち入ることは出来ませんが、当時はこの間瀬銅山から採掘された銅を、燕の銅器製造の原材料として使用しました。間瀬銅山から採掘された銅は良質で、伸張性のある緋色銅で品質の良い商品作りを支えたそうです。

こうして金属材料と技術が揃い、鎚起銅器の製造が始まりました。
1981(昭和56)年には通商産業大臣により伝統的工芸品の指定を受けています。

様々な点が繋がり、それを更に発展させることでより高い技術を蓄積していったんだね。当時の人々のガッツは凄い!

世界的なカトラリー(金属洋食器)の街へ

明治時代に入ると一気に西洋化の波が押し寄せ、和釘も洋釘に置き換えられて需要が大幅に減少しました。このような中、1911(明治44)年、燕の銅器製造の技術が高く評価され、その技術を応用する形で、スプーンとフォークの製造依頼が燕に舞い込みます。

その後、第一次世界大戦時には、軍需産業によりカトラリーの製造が困難になったヨーロッパ諸国からの製造依頼が日本へ、とりわけ燕に集中します。輸出によって外貨を稼げるようになりました。もちろん国内でも金属食器が普及し始め、国内向けにも作られるようになりました。

第二次世界大戦時はカトラリー製造を中止せざるを得ない時期もありましたが、戦後は再びカトラリー製造を開始。米国からステンレス加工技術もいち早く取り入れ、現在に続く金属ハウスウェア(鍋やフライパンなど)産業が誕生しました。

金属加工産業の集積地として発展してきた燕市は、スプーンやフォークなど「カトラリー」の国内生産シェア90%以上を誇ります。

こうして燕市の人々は、優れた技術力を活かした先見の明で度重なる時代の変化に流されることなく成長を続けてきました。今後も時代は変わり続けていきますが、燕の人々は決して諦めることなく柔軟に変化し続けていけることでしょう。

普段なにげなく使っている金属食器のほとんどは、この燕の地で製造されたものなんだね。今日の夕飯のカレーライスを食べる時は燕の人達に感謝しなきゃ!

【コラム】 燕三条駅にある大きなナイフとフォークは何だ??

JR燕三条駅構内の下りホーム階段下にジャンボナイフ&フォークが展示されています。

ご存知のとおり、燕市は高度で多様な金属加工技術の集積した「ものづくりのまち」です。
なかでもスプーンやフォークをはじめとした金属洋食器(カトラリー)の国内シェアは90%を超えるほか、ノーベル賞の晩餐会で使用されたり、APECでの参加国首脳への贈答品として燕の製品が採用されるなど、400年に渡り受け継いできた燕の職人たちの技術は、世界的な評価を得ています。

この「ジャンボナイフ&フォーク」は、燕市内で生産されている金属洋食器と同様にステンレスで作られ、ナイフは長さ4mで重量98kg、フォークは長さ3.8mで重量78kg。
それぞれ通常のフォーク、スプーンの約1000本分に相当するステンレスを使用しています。

製造したのは1986(昭和61)年に開業した「洋食器センター キタロー」。
その店舗の装飾として、燕市の名産品、金属洋食器を象徴するモニュメントをと、このジャンボフォークとスプーンが製作されました。製作費は300万円かかったとのこと。

2017(平成29)年キタローの閉店に伴って燕市が譲り受け、展示場所を変えながら現在は燕三条駅に設置されています。写真を撮ってSNSで発信してもらおうという思いもあるため、どんどん写真を撮ってSNSに投稿しましょう!

スプーン1000本分のステンレスは圧巻!それを作製できた技術力も凄いです!

もし大巨人が来てもこの食器を使えばご馳走してあげられる…かも?!

参考サイト

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