No.2)燕市 河川の歴史

次は燕市の河川の歴史について。
燕市と河川の歴史は切っても切り離せないくらい密接!?

燕市を流れる河川

燕市を流れる代表的な河川は信濃川、その分流の中ノ口川(なかのくちがわ)、そして大河津分水(おおこうずぶんすい)があります。

現代に繋がる、それぞれの河川の歴史をみていきましょう!

信濃川

信濃川は日本三大河川のひとつで、日本で一番長い川としても知られています。
ここでいう信濃川は新潟県を流れる信濃川と長野県を流れる千曲川(ちくまがわ)と合わせた信濃川水系の総称となっています。

古くは「大きな川」として「大川」(おおかわ)と呼ばれていましたが、のちに下流部では信濃国から流れてくる川として、信濃川と呼ばれるようになりました。

信濃川は流れる水量も日本一となっているため、昔から氾濫が幾度も起こり河川の流路も頻繁に変わっていました。住民は信濃川の氾濫と戦いながらも流域を農地として利用し生活していました。

信濃川の名前は知ってたけど、とんでもない暴れ川だったんだね。当時の人は色んな思いを持って付き合ってきたんだろうな。

越後平野

越後平野は新潟県中部から北部にかけて広がる平野。
もともとは海だった地域に信濃川などからの土砂が堆積したことで生まれました。

越後平野は日本海や信濃川より低い土地もあり、とても水捌けの悪い低湿地の地域でした。
それ故に放水路をいたるところに作り、水捌けをよくして農地として利用してきました。

付近の人は昔から田んぼを作っていましたが、腰まで水に浸かりながら農作業をしたり、度々の信濃川の氾濫で台無しになったりなどとても大変な時代を過ごしました。

越後平野の住民の歴史は信濃川の氾濫と戦ってきた歴史と言っても過言ではありません。

米どころ新潟なので肥沃な土地のイメージあったけど、それは住民の方が開拓してきた結果の歴史だったのね。美味しいお米を普通に食べれられることにもっと感謝しなきゃ!

中ノ口川

転機となったのは戦国時代。
上杉景勝の執政で、愛の字の兜でもお馴染み、名将と謳われた直江兼続が、燕・三条付近の洪水調節を図るため中ノ口川の治水工事を行いました。
この工事のことを直江工事(なおえこうじ)と呼んだとも伝えられています。

このような経緯で、中ノ口川(なかのくちがわ)は、信濃川の分流としての役割を果たすようになり、江戸時代より信濃川とともに舟運が発達し、沿川の燕、白根、大野などは河岸場町として賑わいました。

直江兼続は大好きな戦国武将なので知ってた!けどまさか中ノ口川と密な関係があるとこまでは知らなかった。。。

横田切れ

江戸時代になっても堤防による河川改修は行われましたが、信濃川が度々氾濫を繰り返し引き続き為政者を悩ませてきました。

次の転機が1896(明治29)年の「横田切れ」。
この「横田切れ」は信濃川の堤防決壊による洪水被害の名称です。ちょうど当時の横田村(現、燕市横田)の堤防が大きく決壊したことからそう呼ばれています。

浸水面積は600 km2、浸水家屋 60,000戸という記録が残っています。
横田切れは新潟が壊滅するほどの大水害として、人々に大きな衝撃を与えました。
越後平野の広い範囲が泥海と化し、浸水は4ヶ月にも渡り衛生状態の悪化に伴う伝染病の蔓延など2次災害も大きな被害となりました。

この災害をキッカケに堤防整備だけでは水害を防ぐことができないという考えを持つ人が増え、大河津分水の計画へと繋がっていきます。

この地域もかつてはこんな酷い災害があったのね…忘れてはいけない歴史。

大河津分水

大河津分水(おおこうづぶんすい)は、新潟県を流れる信濃川の分水路。
越後平野中央部で信濃川と分岐後、燕市(分水地区)・長岡市(寺泊地域)の境界付近を流れ、日本海に至ります。
シンプルにいうと信濃川を途中で分けて、洪水を直接日本海側へ流そうという壮大な計画です。

江戸時代から信濃川の流量を減らし氾濫や堤防決壊を防ぐために大河津分水路の建設の請願が江戸幕府になされてきましたが、なかなか計画が認められませんでした。1870(明治3)年に工事が始まることになりましたが、技術的な問題等で建設が中止となってしまいます。
しかし先述の横田切れをキッカケに分水路の必要性が強く訴えられ、1909(明治42)年に本格的な工事が始まり、約10kmの人工の川を掘削、信濃川と掘削した大河津分水にそれぞれ流量をコントロールする巨大な堰(せき)を造り、1922(大正11)年に通水しました。
1931(昭和6)年の補修完了により安定稼働を開始しました。

通水後は信濃川下流へ流れる洪水を大幅に減らすことで出来、度々の豪雨でも大きな被害を出さずに済んでいます。

ただ、影響として水量をコントロールする堰を船が行き交うことが難しくなったこと、また、鉄道の敷設が進んだこともあり、それまで盛んであった船運は衰退していきました。
よってこれに代わる形で中ノ口電気鉄道(のちの新潟交通電車線)が川に並行して作られました。

大河津分水は新潟の人たちを水害から守る壮大な事業だったんだね!

中ノ口川も船運から鉄道へ変化していき、近代の燕市に繋がる転換期だったのか。

【コラム】 直江兼続の兜はなぜ「愛」だった?

直江兼続は、徳川家康に挑発的な手紙(いわゆる「直江状」)を送り関ヶ原の戦いのキッカケを作ったとも言われます。

そんな彼ですが、兜に「愛」の一文字をあしらったことでも有名です。
私たち現代人は「愛」というとLoveを想像してしまい、愛に生きた武将だったのかーと思いがちですが本当にLoveな武将だったのでしょうか。

「愛染明王」説
上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、「毘」という文字の旗印を掲げて戦っていました。これを真似て、愛染明王(あいぜんみょうおう)の愛を掲げたのではないか、という説があります。
愛染明王は恋愛や縁結び、家庭円満など、愛欲をつかさどる仏神とされていますが、弓を持っていることから、軍神として信仰されることもありました。

「愛宕権現」説
愛宕権現(あたごごんげん)は京都・愛宕山の山岳信仰と修験道が融合して生まれた神仏習合の神様で、勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)の仮の姿とされ、軍神として多くの武将が信仰していました。
全国には愛宕山白雲寺から分霊した愛宕権現を祀った神社が数多く存在しています。
新潟県上越市五智にある愛宕神社もそのひとつ。もともと春日山麓にあった物を上杉謙信が1561年(永禄四年)に現在の場所に遷座し、戦の際は戦勝祈願に訪れたと言われています。
武田信玄や伊達政宗なども自領内の愛宕神社を庇護し信仰していたので、同時代の直江兼続が武運を祈って愛宕権現を信仰したとしても不思議ではありません。現在はこの説がもっとも有力とされているそうです。

つまり真相は明確にはなっていませんが、現代の私たちが考えるLoveとは意味合いは異なるようです。
ただ、いずれにせよ自分が憧れる神の一文字を兜につける心情は、現代の私たちでも何となく理解できる気がしませんか?推しのスポーツ選手、アイドル、アニメなどなど。
「この兜、かっこいいだろー?」と部下に自慢していた(かもしれない)兼続を想像すると、一気に身近な感じが生まれますね。

金属加工で世界的なエリアとなった燕三条エリア。今後の発展も楽しみ!

参考サイト

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