次は燕市の金属加工を支えてきた職人についてです。
燕市の職人さん達はどんなスゴ腕を持っているのでしょうか?
叩く 〜鎚起銅器(ついきどうき)〜
No.3の記事でも紹介した、江戸時代から続く鎚起銅器(ついきどうき)。
鎚起(ついき)は、鎚金(ついきん)と呼ばれ、鎚で薄い金属板を裏から打ち出して、肉彫を施すという鍛造技術の1つです。
その技法は古墳時代には既に見られ、奈良時代には「鎚鍱像」と呼ばれる鎚金による押出仏の存在が知られています。さらに時代を経て甲冑の面頬や銅花瓶、やかんとなど様々な製品に応用されていきました。
新潟県では弥彦山から算出される銅を原料とした鎚起銅器が江戸時代から作られるようになりました。
木目金(もくめがね)
木目金とは、今から約400年前の江戸時代初期に生まれた、金属の色の違いを利用して木目模様を創り出す金属加工技術です。
銅、銀、赤銅(銅に金が3%含有)など、色彩の異なる金属を20〜30枚ほど重ね合わせて融着させ、金属塊を製作。それを打って延ばして金属板にし、表面をタガネで削って模様を出して、さらに打ち延ばしていくことで、木目のような斑紋ができます。
金属で丹念に鍛え上げることにより、重ね合わせた金属の層が流れたり、膨らんだり、複雑な木目模様が表現され、玉川宣夫が木目技術の世界第一人者として知られています。
人間国宝 玉川宣夫(たまがわのりお)
玉川宣夫は1942(昭和17)年新潟県に生まれました。
中学1年生の時に燕市内の「玉川堂」に養子として入り、玉川堂5代目玉川覚平に師事、鎚起銅器の伝統技法を修得しました。
1963(昭和38)年に上京し金工家の関谷四郎に指導を受け、独自に「木目金」を研究し、固有の作風を確立。
1965(昭和40)年に帰郷、玉川堂へ再入社、常務、専務として父・兄と共に働く。
1982(昭和57)年日本伝統工芸展に木目金作品を発表し高い評価を受けました。
2002(平成14)年 正倉院宝物「銀薫炉」復元、紫綬褒章受章。
2010(平成22)年重要無形文化財、2012(平成24)年旭日小綬章受章。
「鍛は千日、錬は万日」(玉川宣夫座右の銘)
知れば知るほどその技術力や凄さを感じることが出来ますね!
もっと知りたい!実物を見たい!
磨く 〜研磨〜
金属製品の仕上げに欠かせない工程が、「磨き」。
研磨は、金属の表面を磨き上げることで見た目を美しくするだけでなく、不純物の付着を防ぐなどの効果も得られます。研磨の良し悪しが、製品の品質を左右するといっても過言ではありません。
燕はこの「磨き」の分野でも世界的に有名です。
燕市の研磨技術の起源は、江戸時代にさかのぼります。
燕市は煙管(キセル)の産地としても有名で、煙管職人が最後の仕上げ工程として行うのが研磨でした。そして煙管の需要増大に伴い、研磨を専業とする研磨職人「磨き屋」が登場しました。
これが、燕市の磨き技術の始まりと言われています。
明治時代になると、アルミニウムの加工が始まり、さらに明治後期にはカトラリーの製造が始まるなど、燕の金属加工産業に変化が訪れました。
そのような過程の中で、磨き技術もさらなる発展を遂げていきます。
そこで研磨機や集塵機などの機械が開発されました。また、手作業で丁寧に磨くことで金属製品に光沢や模様を付ける技術も発展しました。これが燕市の磨き技術の発展です。
現代になると、燕市の磨き技術はさらに進化しました。
高度な技術力とセンスで、カトラリーや鍋だけでなく、航空機や自動車などの部品やアクセサリーなども作るようになりました。また、伝統と革新を融合させたデザインや機能性は高く評価されています。特に「鏡面磨き」という技法では、金属製品を顔が映り込むほどピカピカに磨き上げます。これは、世界でも類を見ない技術です。
しかし、燕市の磨き技術は危機にも直面していました。
高度経済成長期には多くの若者が金属加工業界に就職しました。しかし海外からの安価な製品やアジア諸国などの厳しい競争を余儀なくされ、基盤技術である金属研磨の事業所、従業員数が著しく減少。このままでは金属加工集積地そのものが縮小し、産地が衰退しかねない状況にありました。
そこで中国等の大量生産による安価な金属加工品との直接の勝負をやめ、伝統技術に裏付けされた職人ひとりひとりの手による「磨きの技術」を商品とすることにしました。ものを作り売ることから「技術」を売ることへと転換を図ったのです。
そんな中で基盤技術である金属研磨を次世代に残すために建設されたのが「燕市磨き屋一番館」です。
燕市磨き屋一番館
「燕市磨き屋一番館」は以下を目的として2007(平成19)年に建てられました。
- 金属加工産業の基盤技術である金属研磨業に携わる後継者の育成
- 新規開業者の促進
- 技術の高度化による産地産業の振興および体験学習による金属研磨技術の普及を図ること
運営事業は燕研磨振興協同組合に委託されており、「にいがた県央マイスター」に認定された高度熟練技術者が、研修生一人一人に3年という年月をかけて指導に当たっています。
観光客向けにはオリジナル商品として様々なステンレス製タンブラーも販売していたり、工場見学や磨き体験(要予約)も行っています。
こういった活動を経て、現在の燕市の「磨き」技術は洋食器だけでなく、自動車産業、ハウスウェア産業、医療産業などあらゆる産業に及んでいます。
さまざまな製品をムラなく均一に磨き上げる技術は燕の研磨職人ならではと言えるでしょう。
燕市の「磨き」技術は確実に次世代にも継承されており、今後も世界から必要とされていくことは間違いありません。
職人さん達の諦めない気持ちがここでも発揮されたんですね!
キレイに磨かれた金属はずっと見ていたくなるくらい美しい!
その他の技術
その他にも時代に合わせて職人たちが様々な技術を磨いてきました。
煙管(キセル)
煙管とは喫煙具、つまりタバコを吸うための道具です。
昔の写真などで煙管を加えたオジサマの写真を見たことがあるかもしれません。
紙タバコが普及するまではタバコといえば煙管が必要で、燕も江戸時代から長年煙管の製造を行なって来ました。
大正時代には金物プレス機が導入され、「プレス加工式煙管」の製造もはじまります。 その勢いは昭和の中ごろまで続き、1929(昭和4)年には燕市人口の20%近くの人々が煙管づくりに従事し、最盛期には全国の煙管生産の80%を占めていたそうです。
現在でも工芸品として煙管を造っている職人がいます。
ヤスリ
ヤスリも燕市の歴史を語るうえで欠かせない存在です。
ヤスリは主に明治時代、金属洋食器よりも盛んな産業として明治40年頃には400軒ものヤスリ工場がこの地に並んでいました。日清・日露戦争中には軍需産業用としての需要も高まり、西の呉、東の燕と言われるほどでした。
現在ではヤスリ工場は3軒にまで減ってしまったそうですが、製造の現場で使われる「工業やすり」や、女性消費者をターゲットに考えられた「爪ヤスリ」など品質の高いヤスリなどをつくりながら技術を継承しています。
彫金
彫金とは、金属をタガネやヤスリ等を用いて彫り、意図する形状にしたり表面に模様・図案・文字などを入れる技術です。タガネには様々な形があり、タガネの先端の形によって、それぞれ異なった彫り方ができます。
燕市の彫金の歴史も古く、江戸時代の中頃に会津や江戸から技術が伝わったとされています。
現在は主に工芸品として彫金の技術が継承されています。
金属にまつわる様々な技術が継承され、時代に合わせて変化してきたんだね。
燕の職人さん達のパワーをここでも感じ取ることが出来ました!